父親の死

私の父は、私が18歳の時亡くなった。

当時感じたことは、私は二本足で立っているけれど、その片方が無くなって、歩けなくなる。

そのような感覚だった。

父親という存在は私にとって大きかった。

母、父、弟、私の四人のうち一人欠けてしまうのだから。

父は亡くなる5年くらい目からしきりに「俺が死んだら骨は海に撒いてくれ」

というのが口癖だった。

父はその頃からアルコール依存症だった。

一晩でウイスキー1瓶を空けてしまう程だった。

飲む酒がなくなったら料理酒にまで手を出した。

そんな状態で仕事はできず、母は父と離婚した。

当然の報いだったが、父は私と母と弟が引っ越すとき確か泣いていた。

それから私は時々自転車で父の様子を見に行った。

父は大抵ソファで寝ていた。

その後父は神戸のアルコール依存症専門の病院に入院し、私はお見舞いに行った。

院内は鍵がかけられていて独特の雰囲気だった。

私は使い捨ての弁当箱に、卵焼きと、ほうれん草のおひたしと、鮭の塩焼きと白米を詰めて、持っていった。

父はその弁当を見て「自分で作ったんか」と驚いて涙ぐんでいた。

頼むからタバコを買って来てくれと言われて、看護婦さんの間をすり抜けてマイルドセブンを一箱買いに行った。

父はそれを大事そうに吸ったが、美味しそうには見えなかった。

それからしばらくして父は自宅に戻った。

父から連絡があった。

「明日来てくれないか?」

その日は彼氏と会う予定だったので断った。

そうか…

と悲しそうに電話を切ったのが最後だった。

彼氏と会った翌朝父に電話してみたが、父は電話に出なかった。

昼にもう一度電話をしてみたが出ないので、自宅に向かった。

坂道を自転車で駆け上る。

額には汗が滲んでいた。

自宅に着くと、家の鍵は開いていた。

台所に行くと冷蔵庫が半開きになっていた。

むーんと食品の匂いがしたので私は冷蔵庫を閉めた。

右手の和室を見ると父は寝ていた。

「父さ…」

暗い部屋で父の肩を叩くと、父は硬くなっていてた。

私はその場を飛び退いて、リビングに走った。

リビングは散らかっていた。

自分の携帯で叔母に電話した。

それから叔母と電話を繋いだまま父のガラケーで救急車を呼んだ。

「人が、死んでいます」

声が震えた。

それから救急車と警察が来て父の死が確定した。

次の日になっても私はご飯が喉を通らなかった。

父に会いに行かなかった自分に自責の念でいっぱいだった。

翌日叔母が愛媛から来てくれて、駅まで迎えに行った帰り、雨が降っていたわけでもないのに自宅近くの公園に急に虹が現れた。

あれはきっとお父さんやね。

叔母が言った。

虹ははっきりと見えて、まるで笑っているようだった。

あれから20年が経った。

20年って恐ろしく分厚い時が経ったのだなと今振り返ると思う。

大切な人を亡くした時。

どうしても立ち直れない時。

そんな時は誰かを頼っていい。

必ず誰にだって手を差し伸べてくれる人がいる。

差し伸べられた手を握ったままでも、自分が前を向いて行けるならそれでいいと思う。

20年間私は夫や子どもに助けられて生きてきた。

家族がいたから生きてこられた。

この事を忘れないで、これからも日々精進していきたい。









タイトルとURLをコピーしました